東京都剣道連盟居合道部会 千代田 ・神田支部

居合 神田塾

無外流伝説




























辻 月丹(つじ げったん)

1648  1727



無外流とは



無外流とは

1693年に流祖・辻 月丹が作った剣術(剣法)の流派です。

元は 居合の流派ではありません 


無外流剣術(剣法)流祖・辻月丹 は、慶安元年(1648年 徳川家光の世)近江の国甲賀郡 宮村字馬杉村の郷士・辻弥太夫の次男として生れました 幼名は兵内 兵内の生まれ育った甲賀の地は、中世からたびたび戦乱に巻き込まれたことでも有名で、とくに戦国時代、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江南部を中心に勢力を持った武家(守護大名)六角氏が諜報活動に利用した忍び五十三家は、現代でも甲賀忍者集団として知られています 

子供の頃から、こうした尚武(しょうぶ)にあふれた環境で武芸者に囲まれ育ったのでしょう 13才の時、京都で 山口卜真斎 が創始した山口流剣術(あるいは山口一刀流)を学んだとされています 

18歳のとき兵内は、修行のために近江の岩尾山に籠もります 岩尾山は、兵内の育った甲賀馬杉からは数キロほど離れた山で、中世から修験道の地としても知られ、甲賀忍者が修行した山とも伝えられています 


古来、剣の修行は剣法の術技に習熟するだけでなく、生死を賭ける血戦の場で動揺しないためには、自己を超えた絶対の心的境地を開く修養が必要であるとされていました 武芸者は、心を磨くことによって人間の奥に眠っている力を自力で開悟することが出来ると説かれるようになります 古武術流派の発生時期において、流祖の多くはその超人的なエネルギーの発揮方法を神仏の霊感によって神託や妙旨を獲得した、という話が多くあります 
この頃から兵内は剣の修行の一環として心法にも傾倒していったことが判ります 兵内の諸国武者修行は続き、修めた流派は十二流にも及ぶとされました 


26才の時兵内は師匠より山口流の免許を印可、同時に江戸出府を許されます 麹町九丁目に道場を構え、山口流兵法の看板を掲げました しかし、名も無い田舎兵法者として相手にされず、僅かばかりの弟子と稽古し、修行したのです 


辻兵内はこのころから「無外」という武号を使い始めます 


兵内は、学問と心の修養の必要を感じ、臨済宗 麻布吸江寺(すいこうじ)の石潭良全禅師に師事、 禅学と中国の古典を学びはじめます 無外の という号は 禅 そのものであることから、兵内は心法として  を求めて参禅したのです   


例えば徳川将軍家の剣術指南役だった 柳生宗矩沢庵宗彭(たくあんそうほう)に私淑して その書である「不動智神妙録」から「兵法家伝書」を完成したように、

兵内にとっての沢庵和尚を探していたと読むこともできましょう この沢庵宗彭の書である「不動智神妙録」と柳生宗矩の「兵法家伝書」はこの後の武士道と剣の精神性において武家社会に大きな影響を与えていきます そのことは、その後の辻無外月丹の剣と禅理とで明らかです 


その後石潭禅師が遷化されたため、続けて第二世・神州良祗和尚について参禅、兵内45歳の時悟りを開き、神州和尚は師石潭禅師の名で次の偈(げ)を与えたのでした 兵内は号を、無外兵内 から 月丹資茂 (げったん すけもち)に、自身の流派を 山口流から 無外流  としたのです  



   一法実無外(一法実に外無し)

   乾坤得一貞(乾坤一貞を得)

   吹毛方納密(吹毛まさに密に納む)

   動着則光清(動着すれば光清し)


絶対の真理はひとつであり、外には何にも無い 無外よ、おのれ自身のことである     天地・陰陽  ( 森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から陰(いん)と陽(よう)の二つに分類する範疇 )のなかに得た唯一のものは 吹毛 (よく斬れる剣 )のごときものだが、それはおのれの方寸( ごくわずかな範囲 おのれの心の中 )に納まっており、僅かに動じたとしても光は清々しく輝くだろう


19年の参禅により、一介の剣客でなく、剣者と共に禅者でもあり、学者でもあった月丹は、吸江寺を訪れる大名とも対等に語る事ができ、中には小笠原佐渡守長重、厩橋の藩主・酒井勘解由忠挙、土佐藩主・山内豊昌等多くの大名達がおりました いかにこの時代に幕府とその大名たち武士達に禅が受け入れらていたかが分かります 吹江寺は当時、大名たちのサロンのような存在であったのでしょう 無外流は禅理に基づく剣法として認知されていきます  


元禄八年(1695年)、江戸の大火によって月丹の家も焼失したため、それまでの弟子数は 不明ですが、元禄九年より宝永六年(1710年)まで十四年間の誓詞によると、月丹の弟子は、万石以上の大名三十二家、直参百五十六人、陪臣九百三十人とあります 


一探求者としての人生を希望していた月丹は、大名家から、師範役として迎えたいとの度々の申し出を断り、厩橋藩(後年姫路藩に転封)酒井家には月丹の甥無外流第二代  辻右平太  を、土佐藩山内家には月丹の養子で無外流第三代、後継者の

都治記摩多資英  を推挙し、師範役としました また伊勢崎の酒井家(分家)磯田某も右平太に学び、その流れは挙母藩(ころもはん、現在の豊田市)の内藤家に伝わります 

月丹六十一歳の時、酒井忠挙の取り計らいで、御目見得の儀として五代将軍 綱吉に謁見の許可が出ましたが、不運にも綱吉死去により実現しませんでした しかし、 一介の浪人剣客に御目見得の許しが出た事は当時破格の出来事でありました 


剣者であり、禅者でもあった月丹は、剣と禅は一如であるとし、その内容・文章 の充実さに於いて一流とされる月丹が著した伝書「無外真伝剣法訣並序」の末文に、 「右無外真伝の剣法は禅理をもって教導致すところ、貴殿禅学御了知了知のうえ、御懇望且つ当流の剣法 御篤志につき…」


とあり 、門弟 達にも参禅させ、禅学了知の上でなければこの「無外真伝剣法訣並序」を授けなかったようです 

の精神性は剣と禅は一如のそのものでありました 


「無外流真伝剣法訣」は、石潭が亡くなる少し前から準備されており、その執筆においては石潭禅師の影響を受けたはずです  

 石潭禅師が亡くなるときに、辻月丹は無外流を創始し、その理念として「無外流真伝剣法訣」を定めたのです



月丹の没する三ヶ月前の姿は袈裟を掛け、

手には払子を持 った高僧の姿で描かれ、

また別の画には袈裟を掛けた姿ではあり

ますが、右手に木剣を持ち、眼光鋭い

剣者月丹が描かれています(上部掲載画)


こうして家庭も造らず一生を不犯で通し、自らの利さえ求めなかった月丹は、享保十二年(1727年)六月二十三日、 禅学の師・石潭禅師と同月同日坐禅を組み、念珠を左手、払子を右手に持って79歳で一生を閉じたました 辻無外居士は禅師の例に法り自身の墓もつくらなかったようです 吸江寺は臨済宗妙心寺派の寺であり、沢庵宗彭の系譜であろうと想像できます 故に墓を造らぬことを遺言とした 沢庵宗彭にならい石潭禅師と同じく寺の一隅に葬られたのでしょう 現在、渋谷に移った吸江寺に辻無外月丹の墓だけがないのもそれを裏付けます 


以下、
無外流真伝剣法訣 序文 

夫れ撃剣の術は鎮国の大権、撥乱の要備なり、何となれば武器盛んなれば兇邪わざわいせず(途中省略)精神を会する者は、はるかに雲霄を隔つ、ひそかに憂う、百歳の後、伝習緒を失い、奥微聞くことなきを すなわち新に十則を定めて録して訣筌となす 更に一円を画いて以て極致を寓す 幸いに師に超ゆる作にあわば寧ろ十集してこれを珍とせん、もしまた器にあらざる人には隻字と雖も伝うることなかれ (途中省略)吾いずくんぞかくさんや、吾いずくんぞかくさんや、その十法つぶさに後に言う

   延宝八年歳庚申仲夏望日

無外子辻月丹資茂撰

無外流真伝剣法訣十則

 智 神明剣

 仁 万法帰一刀

 勇 獅王剣

  一.獅王剣

  二.翻車刀

  三.玄夜刀

  四.神明剣

  五.虎乱入

  六.水月感応

  七.玉簾不断

  八.鳥王剣

  九.無相剣

  十.万法帰一刀

 一円 

 附

 短剣法訣

(途中省略) 右無外真伝剣法は禅理を以て教導致す処、貴殿禅学御了知の上当流の剣法御懇望且つ御篤志につき、拙者先師より相伝の奥義、此の度授与致し候、御秘蔵あるべきものなり 


無外流剣法開祖 辻 月丹は、自己の剣術を禅による心法の修行をすることによって昇華させたのです 


敬称略








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